道場で身に付くこと

武道教育における『型』

 

空手の稽古における特徴的なものとして『型』の稽古があります。この、『型』は『型』そのものの稽古だけではなく、稽古全体において立ち方の歩幅、姿勢のほか挨拶、礼、作法といった細部にまでおよびます。すべてそこには細かい決まりがあり、一度それまでの自分流を捨て去って、自己を修め直さなければならない厳しさがあります。  

子供は自分の感情を素直に体現します。何も知らない子供はまだ動物に近いものがあり、転げ回り泣き叫びます。言わばまだ「仕切りの無い状態でこぼれ落ちた水のようなもの」と言えます。水というものは形を成していないので、丸の器に入れて凍らせれば丸い氷になり、四角い器にいれれば四角い氷に変化します。  そのままこぼれ落ちた状態で固まれば、残念ながらそのままで終わることでしょう。

そのような子供も空手に入門すると同時に、『型』という枠に身を修めることになります。 正座をし、深々と頭を下げ、姿勢を正す・・・現代の子供に最も欠如しているものがそこにはあります。

型という細かい決まりを稽古を通じて学習することにより、美しく強く姿勢を修得し、自己を律してゆきます。初めは指導された上での強制的な行為ではありますが、繰り返し稽古の中で行っておりますと、先人の残した深い意味までも感じられるようになります。

現在子供の道徳教育において、様々な論議がなされております。中でも学級崩壊やいじめ問題などの秩序とモラルの低下は深刻な問題となっているようです。然るべき時期に『型』を与えられなかった、「仕切られ」ずにけじめのない状態で自己を形成してしまったことが原因であるように思えます。

当学舎では稽古の最後に、『道徳訓(*論語など)』の素読があります。   厳しい稽古で自己を発散させた後に『道徳訓』の『型』に自らの『心』を流し入れます。それは、誤ったまま固まりかけた氷を稽古という熱により溶かし、正しい心の『型』に流し入れ、再び固めるようなものといえます。 もっとも最初は覚えても意味など考えもせず、オウムのように復唱しているだけでしょう。 しかし稽古を重ねる度にそれは心の深部まで浸透してゆきます。

いつか彼らも年を重ね、問題を抱え、何か選択を迫られた時に『道徳訓』という『型』が、目先の感情を抑え、道を踏み外さず、正しき道を選ぶきっかけとなるとすれば、それこそが生きた道徳教育ではないでしょうか? もちろん、その体は健全で、稽古によって培われた強い空手の技が備わっております。

「強くて正しきを行く若者を育成し、その家庭・地域を明るいものとする」 

それが『青少年育成武道教育学舎』のポリシーであります。それは現在学校等で行われている偏差値教育や、「教科書を開いて道徳を学習する」道徳教育との違いでもあります。厳しくもあり、楽しく、そして正しきを行く「武道教育」こそが現代の子供たちに何よりも優先して与えてやらなければならない、本当の教育ではないだろうかと私は考えております。『青少年育成武道教育学舎』はそれを伝えるための空手道場なのです。